普段の彼女は心やさしく気さくな人柄だ。
自分のことよりまず他人のことを心配してしまう、そんな女性。
こんなに「いい人」でいいだろうか、と思うほど。
でも、ひとたびヴァイオリンを持つと、その表情は一変する。
音楽が乗り移ったようなその集中力は近寄るのも怖いくらい。
ヴァイオリンは楽器の女王である。高音域を美しい音色で自由自在に奏でる。
オーケストラでも室内楽でも、主役を演じるのはヴァイオリンである。
ちょうどイタリア・オペラでヒロイン役のソプラノ歌手が美声とさまざまな技巧(コロラトゥーラ)で魅了するように。
主役であるヴァイオリニストは「個性的」であることが求められる。
「個性」と言っても色々ある。「技巧派」もいれば「精神性が高い」とされる人がいる。
「情熱的」な演奏があればクールな演奏もある。バッハ弾き、パガニーニ弾き・・・というのもあるし、ソリスト向き、室内楽向き・・・などというのもある。
今の時代には、そういう「個性」を売り物にすることで差別化を図ろうとする事が多い。
しかしもし「個性」というのが音楽のある側面を強調したりあるいは削ぎ落としたりする、
ということであるとすると、小林美恵はそういう意味での「個性的」な演奏家とはちょっと違う。
彼女のレパートリーは広い。ヴァイオリン曲の重要なレパートリーはほぼ網羅しているといってよいが、
しかし曲の個性やスタイルに無頓着であるわけでは勿論ない。
どんな作曲家のどのような曲であろうとも真摯にスコアと向き合い、
全身全霊で音楽に奉仕しようとする姿がそこにある。
作曲家と「個性」で対峙するのではなく、そのメッセージを全身で受け止め、
それを自分の人生を賭けて表現していく。生気に満ちたその演奏は音楽の魂が彷彿とするようだ。
そこには人間のそして音楽の普遍性がある。
小林美恵のCDはすべて繰り返し聴く価値のあるものばかりだ。
彼女が自分で納得し共感した曲しか録音しないため、そこには強い意志に支えられた説得力が常に存在する。
クライスラーの小品も、チゴイネルワイゼンも、
そしてラヴェルやドビュッシーのようなフランス物ももちろん素晴らしい。
その中で、やや通向きであるかもしれないが、彼女の魅力が特に発揮されている二つについて触れておきたい。
エネスコのヴァイオリン・ソナタ第3番。これはヴァイオリンの名手でもあったエネスコによる傑作であり、
恐ろしく細かい指示が書き込まれた譜面と様々な特殊奏法が特徴的な難曲である。
小林美恵がそれらをものともせずにこれ以上ないような完璧さ・緻密さを見せているのにまず驚かされるが、
しかし本当にすごいのは、そういう技術的なところは軽々と乗り越えて、
ルーマニアの民族音楽をエネスコが再構築させたものを現代の日本人の感性により
新たな音楽となって生まれ変わらせているところだ。ピアノのパスカル・ロジェとの相性もよい。
あるいはバッハの無伴奏ソナタ第1番とパルティータ第2番、第3番。
三十代半ばの小林美恵が大バッハの神格化された名曲と真摯に向き合い、のびやかに表現したものだ。
彼女は曲目解説でバッハへの「畏敬の念」という言葉を使っているが、
有名なシャコンヌも肩ひじを張ったところが微塵もなく、あくまで音楽の流れが自然である。
この美しく一点の曇りもない演奏に心を動かされない人はいないだろう。
近年のステージでは彼女はもっと表現意欲が強いスタイルでバッハの無伴奏を演奏するようになってきており、
それはそれで成熟の証しとなっているが、以前のこのまっすぐな演奏にも尽きせぬ魅力がある。
(残念ながらこのCDは現在入手が難しくなっているようだ。)
これからも小林美恵はさらに変貌を遂げ、深化していくことだろう。
彼女の人生が音楽であり、音楽が人生である。
「音楽する喜びとは、生きているということです」小林美恵